皮下脂肪が減らないミートテック野郎のブログ

思いついたことを整理してます。

「言ったもん勝ち」というのはフェアなのか?

万国共通ですが、犯罪行為をすれば捕まり、社会的な制裁を受けます。当たり前です。

国ごとの細かい法律の差は知りませんが、相手を侮辱すれば罪になることは少なくありません。名誉棄損です。スポーツなんかでも禁じられてますねこの辺は。

 

最近本当にしょーもないなと思うんですが、政治の問題と芸能人の不倫といったものは、確たる証拠が無くてもマスコミやTwitterで叩きまわるのは放置されていいんでしょうか?

昨今また森友問題で朝日新聞が決定的証拠を掴んだとか騒いでますが、一向に現物が出てきません。多分後で何かに気付いたんでしょう。野党とマスコミは「無いと証明しろ」という実に頭の悪いことを言っています。

もう人類が何百年もやってますけど、お化けって居ないって証明できたんでしたっけ?

一般的に「無いとする証明」というのは「悪魔の証明」と言われ、論理的に不可能なことが多いのです。「無茶を言えば政権が困るだろう」というのは「私は頭が悪いです」と言っているのに等しく、見ていて痛々しいものがあります。

 

「証拠が無ければ言ってはいけない」とすると、マスコミは「報道の自由が侵される」と騒ぐのでしょうが、「多分BC兵器持ってるからぶん殴るね」といって湾岸戦争を始め、中東をこんなにしてしまったアメリカと何が違うんでしょう?(しかもBC兵器は見つからなかった)※B=生物兵器 C=化学兵器

 

今どき、週刊誌でもスキャンダル報道は写真くらい撮ってきますよ。出せない物証があると言い張って天下の大新聞様が1面に記事書き、野党議員は国会の貴重な審議時間使って三文芝居するとか、週刊誌より劣るんですけどプライド無いんでしょうか。

 

TVも最近くだらない話ばかりワイドショーでやってます。視聴率は下がる一方です。新聞も同じですね。そろそろ気づいてほしいもんなんですが、マスコミ自身が「見たくないものは見ない」主義の様で、「戦争や独裁を止めるのは我々だ」みたいなこと言ってほしくないと強く思います。

 

我々そろそろこの人たちをまとめて、本腰入れて批判していかないとダメなのかもしれません。

 

確たる証拠なしに、何かスキャンダルや、社会的制裁を受けかねない指摘をする場合は、「証明できなかった場合告発側が制裁を受ける」という仕組みにしないと、戦時中の隣組の様になってしまいそうです。

平均値で語ることの意味

季節柄春闘を見据える時期に入り、日経あたりが御用聞き性能を遺憾なく発揮して「3%賃上げ」の大合唱をしています。

さてそんな日経が「主要7か国の中で賃金平均が伸びてないのが日本」みたいな記事を書いていて、ウンザリさせられます。TVも含め、マスコミが何かを誘導したいときはこういうデータを恣意的に加工する(グラフの縦軸をいじったり)ので書いておきたいと思います。

 

まず「平均値とは誰のことを指す」のでしょうか?今回の給与の話に沿って進めれば、「一番いい給料をもらっている人と一番安い給料をもらっている人の真ん中で、一番たくさんいる層」と思いがちですが、平均値とはそんなものを保証しているわけではありません。つまり、「平均値=最頻値」とは限りません。

特に最近「格差」が強調されますが、安い給与の人と高い給与の人たちが断絶していった場合、その真ん中に当たる人たちは存外少なくても、平均値はそこになったりします。分かりやすく言うと、

10円4人、50円2人、90円4人(パターン①)

10円2人、30円2人、50円2人、70円2人、90円2人(パターン②)

どちらでも平均値は50円なんですよね。

 

ですから、給与の平均値がその国の在り様や問題点を的確に示してるとは限らないので、それを多国家間で比較することにはあまり意味はないのです。暮らしやすさ一つとってみて比較しても物価と相対ですし。

 

大切なことは、その国にあった(最も大きな問題を修正する)対応がなされることです。高い給与の人がさらに高くなることよりも、低い人たちが上へシフトすることこそ国がまず真っ先に採らねばならぬ政策なわけですから、賃上げだけ叫んでも仕方ないわけです。派遣社員の給与を置いてけぼりにして正社員の議論をしても将来の不安は減りにくいですよね。

 

こういったバカバカしい誘導に引っかからないように、(以前も書いたことですが)新聞やTVの意図を考えながら確認したいものです。

 

ちなみに、個人的には最低賃金を押し上げていくことが一番良いと考えており、現政権は毎回最低賃金を改定しているので、それはそれでちゃんとやっていると思います。割り食って赤字の中小零細企業は潰れるかもしれませんが、稼げてないんだから仕方ないですよね。

某芸人さんを見てて思うところ

最近、某政治討論番組に某芸人さん(以下M氏)が出て、安全保障テーマの時に「敵が来たら殺されればいい」とか極端なこと言って、ほかの出演者から総スカンを食らった上にTwitterも大炎上しました。それだけで終わっておけば「はは、若いねぇ」ぐらいで済んだのかもしれませんが、自分の主張や漫才の政治ネタがウケなかったことについて「こういったものも放送できない日本ガー」みたいな他責で暴走し出して醜態をさらしております。

 

彼が主張したことで一番気になったのは「政治的なことなど俺はわからない。けれども俺の主張は正しい。だから聞け。」という趣旨の発言をしたことです。

知らないことは悪いことではありません。これから調べたり学んだりすればよいのです。しかし、無知を誇るのはちょっと話が違います。無知を誇る者の話は誰も聞きません。いろんなことを学び、経験した人の話は迫るものがあるので皆聞くのです。その過程を端折って彼はオピニオンリーダーになろうとし、そして潰れていきました。

 

実はこの手法は、シールズという国会議事堂前で怒鳴ってた集団のリーダーと同じです。彼も同じく潰れていき、今では政治活動家のレッテルをはがすため、大学を変えて大学院に在籍しています。

2者に共通するのは「盲目的に話を聞いてくれる若い世代の信者がいる(いた)」ことですが、信者たちは彼らの話だけを聞き、ほかの政治家などが登壇しても一切耳を貸さないことです。つまり目的が無く、リーダーを盛り上げることだけに連帯感を持っていることが非常に面白いところです。しかし、この姿勢ではそこから先の実りはありません。現にすべて立ち消えになりました。

 

前置きが長くなりましたが、政治に限らず、物事には流れや経緯があります。今の自民党政治を批判する人は少なくありませんが、そもそも何で今自民党政権なのか、その経緯を紐解かなければ多くの人が耳を傾けることは無いでしょう。現に今の野党がそうです。

仕事などでもそうです。何かを変えようとする時、以前から其処でやってきた人が必ず居ます。その人を「抵抗勢力」と切ってしまうのは簡単ですが、必ず後で面倒なことになったり、こちらが「強引」などとレッテルを貼られることになります。最終的にその人の意に沿わなくても「ふんふん、なるほど、そうなんだね。でもこうしていかないといけないので分かってね」という会話が必要です。とても手間がかかるし、地道で目立たないのですが、意外とこれが一番早かったりします。

 

この地道な会話の担い手として私が尊敬するのが鈴木現夕張市長です。夕張市のかじ取りを引き受けただけでも凄いのですが、上下水道のインフラ費用を削減するため、また福利厚生を向上させるため、一軒一軒回って移住の説得をしたといいます。結果、納得して移り始めた人たちが出て来て、新しい街づくりが少しずつ進み、今では他の自治体のお手本になっているといいます。(この辺りは新聞記事も多いので興味がある方は検索してみてください)

 

何かを主張するときには、対象となる人たちの経緯を理解してからでなければ空疎になります。相手におもねって骨抜きになってはそもそも意味はありませんし、知らないなら知らないなりに主張ではなく感想とすべきです。ブログもそうですが、今はSNSが隆盛を誇る時代です。メディアや政治家もこの膨大な流れのデータをよく見ています。ということは上手に主張していれば、何かが少し変わるかもしれません。

怒鳴ってばかりいても、利用され、それでいて批判だけはこちらに押し寄せてくるだけです。

下手くそなコミュニケーションをしているとストレスばかりが増えて、かつての時代にはなかった折角のチャンスを上手に生かすことができません。直接の会話であれ、SNSであれ、上手に付き合っていきたいものです。

今年は何が変化するのか

あけましておめでとうございます。

 

随分と更新をさぼっているうちに年が明けてしまいました。今年はもうちょっと定期的に上げていければなと思っています。そもそもが思考の整理と文章を書く訓練と思ってやっているわけですから、やらない方が問題なんですよね。

 

さて、昨年はトランプ旋風から政治方面がメチャクチャになり、ネット通販と物流業者が話題を攫いました。しかしながらああいったお昼のワイドショーに出る様な話というのはヒタヒタと来る変化はあまり反映しません。「既に起きてしまったことを大げさに(あるいは間違って)伝える」のが彼らのコンテンツです。

 

ビジネス界隈のニュースを回覧していると、やはりIoTとAIがずっと話題になっています。しかしながら、技術者でなければなかなかその変化がどうドラスティックなものになるのかは想像しにくいものです。私もそうです。

 

両方とも専門どころかアウトサイダーでありますが、敢えて「利用する側」としてどう思うかを整理したいと思います。

端的に言えばIoTとはモノがネットにつながることによってデータをフィードバックしてくる構成のことを指しています。AIは特定のロジックとデータを大量にブチ込んで、独自の判断を下すプログラムのことを指します。

 

IoTについては個人的に、社会に及ぼす影響としてはやや懐疑的に考えています。というのは、IoTの真骨頂はその豊富なデータにあるわけですが、かつてビッグデータがそうであったように、「何の目的で、どういうデータを、どこから、どれだけ取るか」という最初の建て付けが重要なのであって、IoTを使ってるから偉いとかそういう話ではありません。

ビッグデータも話題になったものの大きく報道されてこないのは、その立て付けと分析の結果はかなり地道に繰り返していかないと見るべきものが見えてこないからではないかと思っています。単にスマホとエアコンをつなげたところで意味は無いのです。私はセンシングの分野で、ややこしい配線をしなくても、工場の生産ラインや交通状況のデータが取れたりするところが最初に影響を出してくるのではないかと思います。例えば、生産ラインの品質チェック要員が不要になったり、電車の一両ごとの混雑具合が計測出来て渋滞対策が出来たり。いずれにしても最初の目的設計が肝要です。

 

AIはご存じ将棋や囲碁の世界で有名になりましたが、あれに代表されるように、「繰り返し作業(判断)」についてはデータを大量に流し込めばめっぽう強いのがAIです。当然のことながらこちらもAIに合うものと合わないものがあります。銀行窓口業務なんかはAIにとってかわられるとか言われてますが、本当でしょうか?AIにする前にネットで決済してほしいものです。

私はGooglehomeをはじめとするスマートスピーカーが一番影響しそうな気がします。「OKグーグル」で始まるアレです。アレの何が怖いかというと、人々はスマホを手に入れることによって、PCで閲覧することが無くなり、どこでも情報に接することができるようになったわけですが、スマートスピーカーの誕生により、人々は検索をしなくなります。つまり「検索結果1位のものしか」聞かなくなります。従ってSEOという概念が多分死にます。検索することが無くなるのですから、クックパッド食べログ、キュレーションメディア、この辺は大きな変化を迫られると思います。検索されるようにする広告というものも存在価値を失います。

これはエライことです。人々がAIのサポートを受けることによって、企業側から人に接触する世界が一変します。人同士はしばらくSNSが続きそうです。いや、考えると今まで苦戦してた側(中小企業など)からすると逆転のチャンスかもしれません。いやー、ワクワクしますね。

 

また何か気づいたらこの方面エントリを上げたいと思います。

親族を会社経営に参画させることについて

本日、エアバッグのインフレータ(瞬時に膨らませる部品)の世界的サプライヤーであるタカタが破産手続きをとりました。

 

批判したいことも多々ありますが、大体世間の報道機関からなされているものと大差ないのでその辺はそちらをご覧ください。

 

今回経営者が最後の破たんの会見まで公の場に出てこなかったということで、どうやらオカンが影響しているのではないかと言われています。ロイターを引用しますと。

 

有価証券報告書によると、同社の株式は重久氏が2.89%、母である暁子氏(74)が2.06%を所有、52.1%はタカタの100%子会社で、暁子氏と重久氏が役員に名を連ねるTKJ株式会社が保有する。

 

ロイターの取材によると、TKJとタカタ財団、その他いくつかのタカタ関連会社が、東京のオフィスビルの一角に共同で所在し、受付の電話を共有している。受付担当者によれば、暁子氏や重久氏が訪れることはめったにない。さらに、重久氏が代表を務めるST株式会社という会社が1.5%を保有する。これもタカタの100%子会社で、会社の所在は住居棟に登記されている。

同社は、1933年に重久会長の祖父である武三氏が滋賀県彦根市で織物製造を営む高田工場として創業した。重久氏は2007年に41歳で社長に就任し、2011年に父の重一郎氏が死去すると、後を継いで会長に就任した。重久氏の母の暁子氏は元タカタ役員で、現在は公益法人のタカタ財団の理事長を務める。

創業家の事情に詳しい人物によると、重久氏は同社幹部の一部から「むすこ」や「しげちゃん」と呼ばれ、暁子氏は「大奥さん」と呼ばれており、暁子氏が依然として社内で影響力を持っているという声もある。”

 

ということで、昔父ちゃんが創業したんだけど、母ちゃんが役員に君臨してたりして実権握ってたかもね。ということです。

 

家族なら何でもありなのかと思われるかもしれませんが、中小企業では実は家族を役員にすることはままあります。その目的は所得税対策だったりもしますが、創業時からついてきてくれた配偶者への感謝だったりもするので、経営さえちゃんとしているなら一概には悪とは言えません。

また、上場すると何とか一定割合は親族で固めておきたいと考える企業も多いようで、家族に株を持たせることも多々見受けられます。株の名義のための企業にしておくところ(サントリーの寿不動産とか)もありますが、神戸物産なんかはそのままですね。

 

とはいえ、タカタも立派なグローバル企業であるはずなのに、いつまでも中小企業の時の既得権益を保持したままでは上場企業として不適格だと思いますので明らかに本件事実であるなら行き過ぎだと思います。

そもそも上場したなら誰に買われたって文句言えないのですから、嫌なら上場すんなという話です。

 

オカン大暴れ伝説としては、本件のタカタのほか、旦那の骨壺を持ち出した大戸屋のオカン、そして懐かしい船場吉兆なんてのがありますが、大戸屋も上場企業ですので、正直何考えてるんだと言わざるを得ません。もちろん彼ら彼女らが苦労したころは今よりもっとガバナンスなんて無かったも同然の頃ですから、そう人間は変れないよと言えばそうかもしれませんが、変わらないのであれば株だけ握って経営からは退くべきでしょうね。

 

タカタは大変にみっともない姿をさらして中国企業に引き取られていきました。従業員としては断腸の思いでしょう。人間やはり晩節が一番難しいですね。

日本国憲法第9条の是非の前に憲法の歴史を知ろう

先日NHKがなかなか良い番組

www6.nhk.or.jp

をやっていて、つい見入ってしまったのですが、現政権が改憲を目指すと言って成立して以来、喧々諤々の議論が続いていますが、割と憲法の字面の議論ばかりで、成り立ちの経緯について想いを致すことが無いようなので、少しここに書きたいと思います。

 

皆さんご承知の通り、現在の日本国憲法は戦後発布された物であり、戦前は日本帝国憲法でした。内容については様々あるのですが、最も大きな点は「主権が天皇から国民に移った」ということです。教科書にも出てきますよね。

そしてその次に大きな点は「戦争放棄」を明記していることです。こちらがいわゆる9条という部分に書かれていて、今議論が盛り上がっているところです。

 

さて、安倍さんは「日本国憲法はアメリカに押し付けられたものだ」ということを言ったとか言わないとかだそうであります。個人的にはこれは半分正解で半分間違っていると思います。

半分正解であるのは、「原案は間違いなくGHQから指定された物」だったからです。半分間違いだと考えるのは「日本はこのレベルの憲法改変を受け容れないとまずかったので、積極的に採択せざるを得なかった」からです。

 

敗戦当時の世界情勢を見てみましょう。ヨーロッパではすでにドイツが全面降伏しており、決着がついていました、この時無条件降伏でしたので、日本が降伏条件を付けようとしたときに受け付けられなかったのはこの為です。アジアでは日本が中国から撤退するとともに中国で共産党毛沢東)と国民党(蒋介石)が全面戦争に突入していました。朝鮮半島では北朝鮮がすでに建国されており、ソヴィエトは終戦間際に満州に電撃侵攻してそのまま頑張っていました。

アメリカの視線は既にソヴィエトをはじめとした共産圏の国との付き合い方に向いていました。ドイツは既にこんな感じに分割占領されており(出典Wikipedia

ドイツの位置

日本もそうすべきという声が上がるのをアメリカが抑え込んでいる状況でした。そこで、アメリカの占領の上に「極東委員会」という連合国の組織が成り立っていました。つまり、GHQ極東委員会の指示に従わねばなりませんでした。

 

アメリカ本国としては、ソヴィエトのみならず、朝鮮、中国、東ドイツ(国家としての成立はもう少し後)などどんどん共産主義が広がっており、危機感を持っていました。日本はどうしても東側の防波堤としたかったのです。

 

極東委員会」は英・米・ソと中華民国オランダオーストラリアニュージーランドカナダフランスフィリピンインドの11カ国で構成されていました。当然ソヴィエトは自国の立場を主張しますし、中華民国は日本に恨みがあります。オランダやイギリスも植民地を日本に占領されました。

その「極東委員会」で「天皇の戦争責任を裁くべきか否か」ということが大問題になっていました。ドイツではヒトラーの戦争責任(つまり戦争をやるという決定・指示をした)は既に明らかでしたが、自殺していました。「日本の戦争責任は誰にあるのだ」ということになります。

他方、降伏して以来の日本政府は「天皇が処断される可能性」は降伏当初から分かっていました。条件を付けようとしたのは正にここでしたが、無理だったのは先に述べたとおりです。「何としても天皇陛下を守らねばならない」これはナショナリズムのようなものも当然ありましたが、現実的な問題として「敗戦したと言えど国民にとっての天皇陛下は特別で、何かあれば反乱が起き、内戦状態になるかもしれない」という危機感がありました。簡単にナショナリズムで片づけられる問題ではなかったのです。

 

アメリカとしてはそうそう自分たちに銃口を突きつけられてはたまらないので、軍国主義的だった日本を作り変えねばなりません。そのことは日本政府にも伝えてありましたので、当時の首相幣原喜重郎が自発的に「平和を謳う平和憲法にしたい」という意向をマッカーサーに伝え、歓迎されたと言います。

ところが、松本国務大臣を中心としたメンバーが作った新憲法草案は、「国体護持」すなわち天皇を守らんとするために、主権を天皇に置いたままの草案となっていました。これにGHQが怒ります。天皇中心の国のままであることは、極東委員会からすれば何も変わっていないことと同義で、アメリカの主張が通らないからです。「アメリカは占領して指導しているくせに何やっているんだ」となるわけです。

また並行して東京裁判が行われていました。こちらはGHQの下部組織でしたが、極東委員会と同じ国から一人ずつ裁判官が派遣されていました。こちらでも戦犯と併せて天皇の戦争責任を認定するかどうかで大議論になり、それについても良い番組

www6.nhk.or.jp

があるのでお勧めしますが、それはそれとしてオーストラリアあたりは「天皇制など解体してしまえ」と言い、大モメになります。

 

さて、GHQとしてはマッカーサー天皇対談を新聞に載せた際の効果を見、「明らかに占領政策に有用」とマッカーサーが考えたようです。そこで、極東委員会を納得させる形で天皇を残すべきという結論に至ったようです。

そこで出てきたのが日本国憲法案です。天皇を主権から外し「象徴にとどめる」という形で残しています。ここまでしないと中華民国やオーストラリアは納得しません。そういったことがだんだんと伝わってきましたので、幣原喜重郎GHQ案を議論のスタートとすることにしたのです。天皇戦争犯罪人とされることから逃れ、残していくためにはこれしかなかったというのが当時の状況でした。

 

押し付けられたけれど、ほかに選択肢も無かったということがお分かりいただけたでしょうか?もちろん国内政治権力、国際政治権力が入り乱れた、決して潔癖な議論だったとは言えないものだったと思いますが、その中からみんな現実的な選択をしたということだと思います。

 

さて9条に移ります。冒頭で紹介した番組にも出てきますが、「平和国家を建設する」という意思は昭和天皇から発せられています。そしてこの日本国憲法第9条は幣原喜重郎が「平和憲法にしたい、戦争をしない憲法にしたい」という意思表示をし、マッカーサーから草案に加えられたものだとされています。その後、法律を専門とする国会議員が委員会でもって

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

という条文にしたのだということが分かってきました。

特に第一条の冒頭は、軍の意向で国際連盟を脱退せねばならなかった外務省から「まともに国際条約を守る国にならねば信用されない」という思いとして出された意見が反映されています。日本を少しでも良い国としてスタートさせたいという当時の党派や部署を超えた思いが結実したものと言えるでしょう。

 

さて、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」というのは内に籠っていていいということなのでしょうか?第一次大戦ころの植民地戦争であったり、冷戦時代の代理戦争であるアフガン戦争みたいなものであれば「加担しない」というのは一つの選択肢であったと思います。しかしながら、国対国の戦争が稀になりつつある現代においては引きこもりは国際的な信用になるのか、あるいはそれ以外の国際貢献をし、信用を得る方法があるのかよくよく考えねばなりません。

 

日本は資源の乏しい国で、他国との関係を切ってしまっては生きていけないことは先の戦争でよく分かったことの一つです。国際的な信用なくして日本はあり得ません。当時の人たちが思い描いた国際平和とは今どの様な形を示すのか、そしてどのようにしてこの国を守っていくのか、慎重に、だけど変えないことだけが選択肢であると最初から考えずにじっくり考えてみる必要があると思います。

その時に、先に述べた、幣原喜重郎吉田茂が何をどう考えて今の憲法の形にしたのか、そのあたりに思いを致すことは、決して時間の無駄ではないと思うのです。憲法9条を字面だけで捉えて議論するにはあまりにもったいないと思いませんか?

金が欲しい若者をどうすべきか

なんだかいきなりミスリーディングなタイトルにしてしまいましたw

 

仕事してると、時々高卒の子なんかに「夜勤とかやってもっと金稼いだりしたいので交替勤務の会社に転職します」とか「今建設系の方が給料良いんすよね」とかいって当社を辞めていくんですが、これはどうすべきなんでしょうね。

 

もちろん人は職業選択の自由がありますから、彼らの意思で行動しているわけですし、横からとやかく言うべきものではないのかもしれません。

しかしながら、建設は案件に必ず限りが出てきますし、交替勤務は歳をとると体力的にかなりキツくなるので、生活水準を落とすことを考えておかないと厳しいのです。そういったことを先輩は教えるべきなんでしょうか?

いや、教えたところで彼らの多くの行動は変わらないのかもしれません。だけど自己責任とするのもちょっとかわいそうかなと思うのです。このあたりの事実は、知る人しか知らないからです。

 

昔に比べてカジュアルに転職することが出来る世の中になったことは喜ばしいと思います。劣悪な職場環境から抜け出すこともできるし、もっと自分が向いているものを探すことだってできます。ただ、他方で選択肢が多いことの弊害が上記のような形となって出てきたのかもしれません。

 

大卒だって同じですよね。3年以内に辞めると「第二新卒」などと呼ばれた時代もありました。ですがそれも好景気で需要があったからそう呼ばれたわけで、不景気になれば「根性無し」とかレッテル貼られるんですよね。(事実そうなり、第二新卒特集の採用ページとか無くなりました)

 

自分の人生のキャリアをどう考えるのか。本当はこの辺は大学ではなく高校で教えなければならないのかもしれません。もちろん、経済的な理由で進学できない子だって居ますし、親を気にかけて田舎から出られない子だっています。でも人生は長く、そして生活していかなければなりません。自分のやりたいことと、仕事と生活、どうバランスをとっていくかは社会に出る前に覚えておくべきだと思うのです。