「そこそこ」が無くなってしまった
最近「そこそこ」って言葉をあまり使わなくなってしまった気がしませんか?
ニュースを賑わせている言葉は「安全だとはいいきれない」とか「だれだれが正しいと言っている」そんなものばかりです。いつの間にか「絶対」を求めるようになってしまっている気がします。しかもその実、その「絶対」の根拠も曖昧です。
震災以来、簡単に正しいと思っていたことがたくさん覆されてしまったことも背景にあるのかもしれません。政府が原発は安全だと言っていたのですがこんなことになっていることがその筆頭でしょう。
また、みんな自分で調べなくなりましたね。ネットで検索すれば何でも出てくることが災いしているのかもしれません。それが正しいとは限らないのに。このブログだってそうです。あくまで私の意見の一つでしかないので、鵜呑みにしないでくださいね。
鵜呑みにすると楽なんですよね。調べなくていいし、何かあったらあとから「信じていたのに」とか「補償しろ」って言えばいいですから。
でも実際それで無かったことにできるんでしょうかね?例えば某女優が飲んでいるからって水素水を飲んでる方、消費者センターが「ただの水以上の機能なし」って断じましたがお金返ってきました?
年金機構が株投資を増やして、損出したってニュースになりましたが、今四半期はそれを補って余りある利益出しましたけどどっちが正しいんでしょうか?
私たちが思い出した方が恐らく今より幸せになれるのは、「うーんまぁこれくらいの価格でこのくらいのサービスならいいんじゃない?」という「そこそこ満足」感覚と、適度に「距離を取る」ということではないでしょうか。
完璧をもとめて自分で調べすぎると疲れます。安易に誰かの言うことを鵜呑みにしても責任はとってもらえません。「こんなもんでいいか」という感覚と「ちょっとまてよ」という感覚は、ほかのことに使う時間と、損を避ける危機管理を与えてくれると思うのです。
高い有機野菜を買わなくても栄養は取れるし害はありません。TVで誰かを偉そうに批判しているのはその方が注目されるからです。
何にどれだけ時間やお金をつかうかという優先順位と、どんな情報にも意図が混じっていることは、生きる知恵として忘れたくないものです。